2009年12月06日

下中弥三郎−年表

1878年6月12日‐兵庫県多紀郡今田村に生まれる。
1888年‐小学校前期3年を修了。
1898年‐神戸市雲中小学校の代用教員となる。秋、小学校準教員検定試験に合格。
1902年‐退職後に上京。5月、小栗栖香平と『児童新聞』を創刊。
1905年‐『婦人新聞』の記者を兼ねる。夏、日本女子美術学校の講師となる。
1910年‐12月、中等教員教育科の検定試験に合格。
1911年‐埼玉県師範学校の嘱託教師となる。(〜1918年)
1914年‐4月、平凡社を創業。『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版。
1919年‐8月、啓明会を結成。(翌年、日本教員組合啓明会に改称。)学習権の確立、教育委員会制度、教員組合結成の促進をふくむ「教育改造の四綱領」を発表。10月、機関紙『啓明』を創刊。12月、「文化学会」(島中雄三主宰)に参加。
1920年‐第1回メーデーに参加し代表演説をする。
1921年‐11月、ロシア飢饉同情労働会議を結成。(松岡駒吉と)
1922年‐2月、『労働週報』を創刊。
1923年‐『万人労働の教育』刊行。野口援太郎らと「教育の世紀社」を結成
1924年‐教育の世紀社を母体に、児童中心主義の「児童の村小学校」を開校(〜1936年)
1925年‐石川三四郎らと農民自治会を結成。
1931〜35年‐『大百科事典』26巻『補遺』1巻『索引』1巻を刊行。
1931年‐11月25日、満川亀太郎(一新社)、杉田省吾・佐々井一晃、高橋忠作(行地会関係者)らと経済問題研究会を組織。以後、政党組織運動に進む。
1932年‐1月25日、日本国民社会党準備会を結成。5月12日、赤松克麿らの国家社会主義新党準備会との合同を提議し、新党結成総合準備会が成立。5月29日の国民日本党結成を画策する。結党式直前に赤松派と決裂し、同日に日本国民社会党準備会を解体し、新日本国民同盟を結成。下中は本部委員長となる。
1940年‐大政翼賛会の発足に協力。大日本興亜同盟の役員。敗戦後、公職追放。
1951年‐追放解除。再び平凡社社長に復帰。世界連邦運動に力を入れる
1955年‐世界平和アピール七人委員会を結成
1955〜59年‐『世界大百科事典』。
1957年‐日本書籍出版協会初代会長。
1961年2月21日‐没。82歳。
posted by ss at 12:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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