2009年09月22日

下中弥三郎

下中弥三郎

 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となります。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦人新聞』の編輯に携わります。

 1910年に中等教員教育科検定試験に合格し、1911年 − 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となります。アナキズムや農本主義の影響を受け、1919年、啓明会を結成(20年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。

 1923年、「教育の世紀社」を創立。
 1924年、「児童の村小学校」の設立に協力します。
 その間、1914年には『ポケット顧問 や、此は便利だ』を発売するために平凡社を創設、1931年 − 1935年には『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になります。下中弥三郎伝刊行会編「芳岳」の8月号の中に「弥三郎は陶工の外は、常に一介のサラリーマンに過ぎませんでしたが、常に己の事業、己の仕事としてベストをつくしました。やがてその集大成が、「平凡社」という自己の事業に発展した」と記されています。

 1930年頃から国家主義(国家社会主義)の立場に立ち、新日本国民同盟などを創設。1940年には大政翼賛会の発足に協力、大日本興亜同盟の役員となります。

 敗戦後、公職追放。1951年、追放解除とともに再び平凡社社長に復帰。1955年、世界平和アピール七人委員会を結成。その後、世界連邦を主唱し、世界平和7人委員会のメンバーとして活躍するととも、日中文化交流にも大きな役割を果たしました。

 1955年 − 1959年、『世界大百科事典』を出版。

 1957年、日本書籍出版協会初代会長。晩年は平和運動や世界連邦運動を推進しました。1961年2月21日没。享年82。
posted by ss at 08:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。